信州・トマトとそばの旅──松本・里山辺編
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作成日時 : 2008/08/21 08:02
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安曇野・穂高のそば上條から国道147号線を松本へ向かう。途中、寄ったのは豊科のビレッジ安曇野。直販所や宿泊施設など複合施設の一角にあづみ野ガラス工房があり、ここで製作している田中恭子さんに会いたかったのだ。上條さんから彼女ののびやかな作風について聞いていたからで、向日葵のような黄色で大胆に彩ったガラス皿はそばサラダにうってつけらしい。
訪ねてみると、田中さんはまだ学生のような初々しさ。Tシャツの首に巻いたタオルがガラスづくりの過酷さを伝えてくる。灼熱の火で飴のようにとろけたガラスと対峙し、かつ即座に形を決めてこそのガラス造形なのである。
この工房は、旧豊科町と多摩美術大学クラフトデザイン研究会がガラス作家および地域に根付いたガラス文化育成を目的に設けたもので、もう二十年以上の歴史がある。この日は田中さん以外にも男女数名の若者が窯と向かい合っていた。北アルプスの雪解け水でうるおう安曇野に、透明感のあるガラスはよく似合う。郷土味覚のそばにとっても、ガラスに盛ることで竹や土の器とは別種のすがすがしさが生まれるはずだ。
豊科から松本へは南へひとっ走り。松本にも好きなそば屋は数多く、寄り道したいところだが、ここはぐっとこらえて町中を抜ける。めざすは東部の里山辺地区。重文の旧開智学校に匹敵する歴史のある旧山辺学校や美ヶ原温泉があるところ。ぶどう畑を見ながらさらに進むと、ビーナスラインを経て霧ヶ峰も遠くない。
それにしても、白壁の八角高楼が屋根にのった山辺学校の見事な木造建築よ。現在は歴史民俗資料館になっていて、内部に入ると、たちまち明治の子供になれる。擬洋風建築というらしいが、こういう簡素な学び舎から巣立った人々が民芸を愛する松本人気質をはぐくんだのであろう。もう一つ、今年の夏も開催されているクラシックの祭典・サイトウ・キネン・フェスティバルもこんな風土のもとで開花したのだ。
学校の裏手の大久保醸造店は、玄関脇に帳場のあるような小さな蔵元なのだが、全国の醤油と味噌屋さんから一目おかれる存在。松本じゅうのそば屋のお目付け役でもある。これはという松本のそば屋はここの醤油を使っており、実際、大久保さんが案内してくれるそば屋にはずれはない。
醤油は底力とのびやかさを兼ね備えたもので、わたしには信州の都・松本の象徴のように思える。この醤油を使いこなしてこそ一流と、地元そば屋は奮起するのだ。向上心の強い大久保さんは、原料大豆の吟味や仕込み法の工夫はもちろん、蔵の床と壁に炭を入れるなど、うまい醤油のためには手を尽くす。そんな蔵だけに、一歩入るともろみの清らかな香りに満ちている。この芳香こそが、日本人の味覚の原点なのである。
もっとも当主の大久保文靖さんは自然体の方で、おかみさんの圭子さんが打つ家庭そばが大好物と公言してはばからない。長女夫婦と孫たち、次女・三女が一緒に食卓を囲む大久保家は、週に一度は家でそば尽くしだそうだ。
こんな大久保さんからそば会に誘われたのが、今回の旅の発端。てっきり大久保家のプライベートそば会と思いきや、地元友人たちとの持ち回りそば会で、会場は美ヶ原温泉にある大久保さんの隠れ家だそうな。手打ちそばのほか、料理も手製の持ち寄りと聞き、一も二もなく参加したわけである。
美ヶ原温泉は小さな宿がぽつぽつある温泉場で、それでいて同規模の各地の温泉地とはひと味違う、明るい信州ムードがくつろがせる。
そば会に集まったのは、女性フルート奏者、書道家、薬問屋の社長さん、公務員OBなど多彩だが、全員、地元の方。大久保さんの交遊の広さがわかる。どなたが打ち手なのかしらと見回したら、頭にバンダナを巻きつけたご夫婦が奥から現れた。今までそばを打っていたのだ。座をほっとなごませる二人の笑顔がそばの出来ばえを期待させる。アマチュアそばこうこなくっちゃ。
ご主人は村山光利さんといい、ビルの手すりや階段に用いるステンレスの加工工場をされていて、東京の大手建設会社が取引先だそうな。松本でつくられた手すりが丸の内や六本木の高層ビルに使われているとは、IT族はご存じあるまい。
献立は、草木染め作家の洋子夫人によるだし巻き卵から。ふっくらの焼き加減と、たっぷりの大根おろしがうれしい。信州豚の冷しゃぶとトマトのサラダは、大久保さんのすだちぽん酢で味付けしたもの。引き締まった酸味がそば前のメニューを引き立てている。そば前といえば、お酒は日本酒、ワイン、焼酎といろいろ。かといって、銘柄にあまりこだわっていないのが、ディテールより本質だけを究めようとする大久保さんらしい。
ワインに意外な相性のよさを発揮していたのが漬け物。実は大久保さんのおかみさんはいつ訪ねても手製の漬け物を2〜3種、みつくろってお茶受けにだしてくれる漬け物上手。本日のたくわんや味噌漬けも彼女のものだが、それらの薄切りをチーズやフランスパンと組ませてカナッペにしているのがミソ。村山夫妻のアイディアらしい。漬け物はきゅうりとなすのぬか漬け、野沢菜の古漬けも運ばれ、一同の箸がのびるのびる。信州土産の野沢菜漬けはあざやかな緑色をしているが、信州人にすればそれは若すぎ。目の前のべっこう色になった古漬けこそが本当の野沢菜の味がする漬け物なのだという。熟成し、発酵して、生の野菜とは異なった風味と栄養をもつ食べ物になってこその漬け物なのだ。
お腹も気持もくつろいできたところで、そばが登場した。角がきりっとした細打ちで、一本をそのまま口に運ぶと、わたしの大好きな信州あちらこちらの風景が目に浮かんだ。すっかりうきうきして、つゆをつけてするするするっ。醤油とだしがよく練れたうまみと香り。ステンレスが商売というのに、こんなに人をやわらかな気分にさせるそばを打つなんて。村山さんは懐の深い人だなあ。
その晩は美ヶ原温泉の奥にある、金宇館(かなうかん)に泊まった。三階建て木造建築は旅館建築史のうえでも貴重なところ。門をくぐったとたん、遠い昔、祖父母に連れられて出かけたとある温泉宿を思い出した。それぐらい懐かしさという匂いを放っているのだ。庭の手入れもこざっぱりと行き届いている。石原プロの撮影監督が親戚だそうで、応接間は石原裕次郎の写真や遺品がいたるところ飾られている。なにやかや昭和を思い出させる宿なのだ。
こじんまりした宿だけに、朝ごはんは定番献立ではあるが、しみじみおいしい。こんな温泉でときどき骨休めし、仲間とそばをたぐる大久保さんが心底うらやましくなった。(この項おわり)
もろみの香 肌に沁みいる日の盛り
千恵子
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