軽井沢追分宿・中山道69次資料館で憩う
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作成日時 : 2008/07/03 08:12
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鉄道の起点は東京駅だが、道路の起点は日本橋で、橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれている。
わたしはその日本橋の町の一角の育ちで、仕事がら取材旅行がとても多い。当然、鉄道にも道路にもずいぶんお世話になっているわけだが、日本橋起点の街道には決してくわしくない。
江戸時代に整備された五街道は東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道で、軽井沢の友人たちと食探訪をはじめてからは、中山道との縁が深くなっている。
中山道は日本橋から板橋を経て、埼玉県から長野県南部を通り、諏訪から木曽、美濃、そして近江の草津、京都へとつながる。つまり江戸と京都を結ぶ街道で、江戸時代には東海道に匹敵するにぎわいだった。
東海道は箱根の山や、橋のない大井川、熱田・桑名は船便と、難所が多かったが、中山道のほうは山道もあるとはいえ、比較的スムースで人気があったのだ。幕末の皇女・和宮は中山道で江戸に向かったし、後に新選組となった浪士一行は中山道を十五日間歩いて京都に着いた。
軽井沢は江戸から十八番目の宿。けわしい碓氷峠を越えてほっとするというシチュエーションで、旅籠が二十一軒、本陣一か所、脇本陣四か所が並んでいた。宿場としては大きいほうである。
次の宿の沓掛は今でいう中軽井沢。旧地名はまったく消え去ってしまっている。その次が追分宿。ここから北国街道が分岐するため、分かれ道という意味の宿名になった。でも、わたしのようなアンノン世代には、堀辰雄ゆかりの地というほうが身近だ。
その追分宿のはずれにあるのが中山道69次資料館。わたしは近くを通るたびに必ず立ち寄り、岸本豊館長からネタを仕入れることにしている。じつは、いままでの中山道の説明も、岸本さんから何度も聞いているうちに頭に入ってきた知識なのである。
中山道69次資料館は中山道が国道18号線と交差するところにある。白壁が美しい民家風の二階建てだが、正確にいうと岸本さんの個人博物館である。
岸本さんはもともと徳島出身で、地元で高校の地理の先生をなさっていた方。定年退職後、それまで収集してきた資料を全部もって追分宿に引っ越してきて、資料館を開設したそうだ。
ところで、わたしが興味をもっているのは、食のことだから、初めて資料館を訪問したときには、さっそく江戸の旅行食について質問した。
岸本さんの説明によると、中山道は東西の大動脈だから、宿々においしい名物があったようだが、旅人にとっていちばん頼りになったのは焼き米であろう──とのこと。
焼き米は全国的に知られた携帯食・非常食で、もちろん今でもつくられている。標準的なつくり方は、もみ付きのままの米を煎り、つぶしてもみを取り去ってから乾燥させるという工程である。昔は臼で米をついたようだ。
資料館で現物を見せてもらうと、臼のなかで、もみがらのついたお米がからからに干し上げられていた。とにかく軽いし、そのままぽりぽりかじることもできる。
食感は甘くないコーンフレークとでもいったところだが、もっと固い。そして、よく噛んでいくほどに、米のうまみがわき上がってくる。お腹のなかでふくれるせいで、腹持ちもよさそうだ。
また、お湯につければ五分ほどでお粥状態になるし、いざとなれば水でもどす手もある。つくる段階ですでに熱が充分とおっているから米粒の形もくずれ気味で、その分やわらかく、粒食とはまた違うおいしさである。これほど純粋に米のおいしさを味わえる食品も少ないだろう。
味つけは塩だけで充分だし、梅干しでも入れれば大ごちそうである。同種のものは当時、各地にあったようで近年は広島県三次市のほうでも復元されているようだ。また、友人からいただいた大分県九重町の食工房地蔵原の焼き米には、てんさい糖が添えられていたから、甘いおやつ代わりにもなるのだろう。これは旅行食にぴったりの食べもので、海外でお腹をこわしたときにもいい。
ともあれ往時の中山道では浦和に「焼米坂」という地名の坂があって、焼き米を売る店が並んでいた。岸本さんからはその絵も見せてもらった。のびやかでいて、心あたたまる光景である。
そういえば、岸本さんは年に何回も中山道の新資料をさがしに出かけるそうだ。てくてく歩くことが多いから、焼き米をつまんだら便利なのではないだろうか。
「そんな時間はありません」
と、岸本さんの答えはにべもなかった。現地調査の際は、時間を惜しんで昼食もおやつも抜きなのだという。どこへ行っても食事の心配ばかりしているわたしとは正反対のタイプの方だが、めしを抜いてまで打ち込むものがあるというのはうらやましい。
ところで、軽井沢近辺は関東平野から山間部にさしかかる位置にあたる。ここから木曽路にかけては、本州の中央部を歩くルートになる。
それで、現代の日本の真ん中の食事情をかいま見ようと、スーパーマーケットのツルヤに向かった。ツルヤは長野県内に二十店以上もある大チェーンで、もともと軽井沢の別荘族が客層だったこともあって、素材や製造法を吟味した地元食材に力を入れている。
どこの支店もとても広いので、いつもわたしは二時間はたっぷり見学してしまう。某日、中山道沿いの店を子細に見ていると、野菜類はもちろん、豆腐や牛乳も地元の良品がきっちり並んでいたが、産地の多様さに目をぱちくりすることのほうが多かった。
野菜にしても地元産よりは、トータルすれば北海道から九州に至るまでの県外産が主流。魚介類は太平洋側からも日本海側からも、それも北から南に至るまで。遠方だからといって鮮度が落ちるわけでもなく、ごく当たり前のような顔をしてケースにおさまっている。
日本の中央部だからという理由で、全国の産物が集まっているわけでもなさそうだ。日本の食の流通自体が、地方色などといった世界をとっくに突き抜けて全国展開しているのである。もちろん、東京のスーパーだって同じ状況なのだが、東京産の食品は少ないのだからと、つい見過ごしてしまうのだ。
そして、食の流通手段はおおむねトラックだろう。昔の街道をそのまま車が驀進するわけではないが、高速道路はそれなりに中山道に沿って伸びている。岸本さんの中山道研究は、現代の交通事情にもきっちりつながっているのであった。
東京にもどったわたしは、神田明神の前に行ってみた。日本橋をスタートした中山道は、神田明神と湯島聖堂の間の道を通って板橋宿に向かう。だから、ここも古道のうちなのである。
神田明神の鳥居前には一八四六年創業の老舗・天野屋がある。店の地下の室(むろ)でつくった甘酒、味噌が江戸時代以来の名物になっている。
その店先に「旧中山道」とかいた小さな木製の看板があった。塀に沿って左手にまわると、そこにも看板。これは岸本さんの手づくり看板である。天野屋横の鍵の手になった細い道こそ本来の中山道である、と古地図から分析したのである。通説では数十メートル分、ちょうど道路一本ずれている──こちらが正しい中山道であると、岸本さんは天野屋に頼み込み、「旧中山道」の看板をかけてもらったのだ。
岸本さんの新説を聞いて、天野屋の主人も納得し、喜んで看板をかけてくれたという。街道がつないだ縁である。
いつのまにか、わたしの頭のなかは時代が混在してしまい、中山道を行くちょんまげの岸本さんが天野屋で甘酒を買い込み、浦和で焼き米を買ってぽりぽりやりながら歩きつづけて、追分宿の資料館に帰っていく姿がはっきり見えたのであった。
桑実る古道の奥に資料館
千恵子
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