比叡山から彦根の近江牛すき焼きで精進落とし
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作成日時 : 2008/01/10 06:30
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比叡山延暦寺に行ってきた。その前には戸隠神社や諏訪大社へ詣でたし、永平寺に参籠したのもつい最近のこと。大物クラスの神社仏閣だけでなく、わたしは社寺を見つけたら、必ずお参りする主義である。境内にただよう清潔感と緊張感が大好きなのだ。寺も神社も、元来そういうパワーがある土地に建てられるわけだし、現実としても、境内の鬱蒼とした木立がマイナスイオンを放ち心身を浄化してくれる。
延暦寺は空海のライバルだった最澄が1200年前に開いた古刹で、京都市街の北東の比叡山の上にある。また琵琶湖西岸からは、大津の北の坂本から登るルートがある。前回、大津の月心寺で庵主さまのごま豆腐と講話にすっかり魅せられたわたしは、さらに仏の道を深めようと延暦寺に向かった。
というのは表向きで、精進料理のあとはすき焼きで“精進落とし”をしようというのが本音。聖なる空間にもっと長く身を置いてから食べた方が、聖と俗の対比がきわだって、すき焼きのおいしさがさらに高まると思ったのだ。
なお、月心寺の庵主さんもすき焼きは大好物だといっておられたし、比叡山のお坊さんだって、すき焼きと聞けばお箸をもって山を駆け下りるはず。もしかすると、すき焼きは聖俗を超越した料理なのかしらん。
琵琶湖を眼下に比叡山ドライブウェイを上がり、延暦寺バスセンターに着いた。比叡山は東塔、西塔、横川の三地域に分かれているが、今日は東塔拝観だけにしよう。じつは、すき焼きの予約時間が気になるのだ。最澄さんごめんなさい……空海さんなら許していただけそうだけど、真面目な最澄さんには無理かもね……。
そのわりに最澄さんのお弟子たちはしっかりしていて、駐車場脇にちゃんと入場券売場があって、そこを通らない限りお参りできない。お賽銭や寄進だけでは足りないのだろうか。
ともあれ東塔最大の見どころの根本中堂へ向かう。根本中堂は朱塗りの柱に金彩がほどこされた華麗な建物だが、わたしには重すぎる印象で、1200年間不滅という法灯に照らされた御本尊の薬師如来を拝むと、そそくさ退散した。途中、宮沢賢治歌碑の標札が目に飛び込んできた。賢治が熱心な仏教徒だったのは知っているが、延暦寺で一首詠んでいるとは。なんとも幅の広い人だったのだ。
鐘楼で鐘を一回撞かせていただいてから、山を下りる。すさまじい鐘の響きが、耳だけでなく頭の中からいつまでも離れない。比叡山を振りかえると、満月が寺のあたりを白く照らしていた。手を合わせたくなる。見るもの聞くものすべてがありがたく思えてきたのは、参詣の功徳にちがいない。
再び大津に出て、琵琶湖を半周して彦根に着いた。彦根といえば大老・井伊直弼。居城だった彦根城は当時の姿をそのまま残しており、きちんと保存されている城下町にはおいしいものがひそんでいる。鮒ずし、湖魚の佃煮、ゆば、赤かぶ漬け、和菓子などだが、忘れてはならないのが近江牛の料理。
ここで牛肉についてひとこと。ブランドとして流通している牛肉は200以上あるが、3大銘柄といえば近江牛、神戸牛、松坂牛がおおかたの認めるところ。これらに共通しているのは黒毛和種の未婚のメス牛であり、肉質の格付けが最高ランクのA5もしくはそのすぐ下あたりを用いていることである。
ただし、食肉の歴史では近江牛が抜きん出ている。文明開化のずっと以前、なんと江戸初期の元禄時代から、井伊家は味噌漬けを滋養薬として将軍へ献上し大名家へ贈答していたのである。もちろん、牛自体は農耕や物資輸送用の役牛としてずっと飼われてきたわけだが、昭和20年代後半からは事情が一変した。
近江牛協会が発足したのである。肉をとるための肥育技術がすでに確立していたのと、江戸時代からの知名度のおかげである。東京に牛を運び、トラックに乗せてパレードしたり、デパートで試食会を開いたりと宣伝イベントも盛んに行われた。ちょうどその頃から高級牛肉の需要が増えてきたので、近江牛は一躍名を上げる。
なお、滋賀県生まれでなくても、県内で肥育された黒毛和種の牛ならば近江牛と名乗ってかまわない。なぜなら、但馬産の牛を近江へ連れてきて働かせるのが江戸時代以来の慣習なので、肉牛中心になった現在でも、子牛は但馬から買ってくるのが原則なのである。さらに言えば、同様に松阪へ運ばれた但馬牛は松阪牛と呼ばれるし、神戸牛も実体は同じ。それだけ但馬牛の肉質はすばらしいのだ。
近江牛を彦根で味わうなら千成亭。昭和30年創業の精肉店で、初代はもともと牛の肥育を生業にしていた。近江は米どころで藁やもみが豊富なので、牛の餌や牛舎の敷きものに苦労しないらしい。2代目、3代目親子も牛には一家言がある。「肩が張って上半身の大きな体型なら肉がたくさんとれる。そして、霜降りになるのは、牛が肝臓をわるくする一歩手前のときなんです」。
上田さん一家は「人間においしく食べられるのが牛にとっての幸福」と信じて家業に励んでいる。おいしい牛を扱うために契約牧場をもち、一頭買いして、部位をすべて無駄なく使うそうだ。
千成亭は彦根周辺に直営の肉料理店を数ヶ所もっているが、この夜わたしが出かけたのは、お堀端近くの夢京橋キャッスルロードにある伽羅。女将さんがみずから焼いてくれるすき焼きを、彦根在住の友人からすすめられていたのだ。
座敷に通ると、すき焼きは炭火で焼くことがわかった。座卓中央に七輪がはめ込まれていたのだ。よくおこった炭がいけられ、鍋が登場した。黄金の鍋かと見まがう輝きに、思わず「えっ」。女将さんが「真鍮製なんですけど、金に負けない熱伝導率で金よりおいしく炊けるんです」と、微笑んだ。
近江牛は藍の大皿にのって登場。部位ごとにそれぞ異なる美味があると信じているわたしは、各種盛り合わせを予約しておいたのだ。運ばれてきたのはリブロース、肩ロース、腕肉の3種盛り。さしがマーブル模様に入り、鼻を近づけると爽やかで甘い肉の香り。よく熟成されている証拠だ。食べごたえのありそうな厚みもうれしい。
鍋が熱くなったのを見計らって女将さんが脂身を入れた。じゅうじゅう。肉は腕肉から。箸で広げて脂身にかぶせるように乗せ、その上に割り下をちょろっちょろっ。
たちまち醤油の香ばしさが立ちのぼる。醤油にみりん、砂糖、だしを混ぜた特製割り下のうまみが牛肉にからまり、もつれ、さらに別の風味にまで高まって、鼻をくすぐる。肉は肉で火が通るにつれ、赤からピンク、そしてベージュへと色を転じ、「早くわたしを食べて」とばかりに誘ってくる。
ではいただきます。卵を溶いて箸でつまむ。やわらかいが存在感のある口あたり。脂が甘くとけ、たんぱく質のうまみが舌に広がる。
次はリブロース。こちらは女王のような華やかさ。肩ロースの男っぽさもうれしい。それぞれの部位を焼く合間には、玉ねぎ、ちょうじ麸、糸こん、みつばをたっぷり煮てくれる。青ねぎもしなしなとやわらかい。
甘辛の美味にとろけながら、ごま豆腐から始まる精進料理でもてなしてくださった月心寺の庵主さまの顔と、比叡山を下る山道で仰いだ満月があたたかく目に浮かんだ。
寒の入りすき焼き肉を広げたる
千恵子
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